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3月1日 東京カテドラルでのミサ説教
3月1日 東京カテドラルでの菊地大司教司式ミサでの、大司教様のお説教の音声ファイルです。
大司教お説教1日.mp3
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3月8日東京カテドラルでのミサのお説教
3月8日 東京カテドラルでの菊地大司教様司式ミサでの大司教お説教の音声ファイル
大司教お説教8日.mp3
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3月15日東京カテドラルでのミサのお説教
菊地大司教司式のミサでのお説教の音声ファイル
大司教お説教15日.mp3
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3月22日のミサのお説教は、音声に不具合があり、音声ファイルの作成が出来ませんでしたので、原稿を掲載します。

説教の原稿

四旬節第四主日

東京カテドラル聖マリア大聖堂(映像配信ミサ)

2020年3月22日

わたしたちは,厳しい挑戦を受け続けながら、今年の四旬節を過ごしております。教会の歴史の中では初めてではないのだろうと思いますが、しかし、私を含めて多くの方が,信仰生活の中でこれまでに体験したことのない事態に遭遇し,困惑しています。

四旬節は、洗礼の最終的な準備をしている洗礼志願者と歩みをともにしながら、キリストに従うわたしたちが、信仰を振り返り、イエスとの出会いの原点に立ち返ろうとする季節です。感染症の拡大が要因とはいえ、その四旬節中にミサにあずかることができず、また御聖体のうちに現存される主との一致の機会も霊的な拝領に限定され、黙想会などを通じて信仰を見つめ直す機会もなくなってしまったことは、わたし自身非常に残念ですし、教区に対してそのような判断をせざるを得なかったものとして大変心苦しく思っております。

もちろんミサがないことだけで、わたしたちの教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。この危機的な状況に直面する中で、あらためて、わたしたちは信仰によって結ばれている兄弟姉妹なのだという意識を、さらにわたしたちは共に、同じキリストの体を形作っているのだと言う意識を、心に刻んでいただければと思います。

祈りのきずなによって結ばれて、共に困難に立ち向かう兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。

わたしたちは、暗闇の中に取り残されて、一人で信仰をまもろうとしているのではありません。わたしたちは、神から与えられた賜物であるいのちを共に生きているように、物理的に離れていても、たとえ皆が集まることに困難があったとしても、同じ信仰の内にあって共に祈ることで、一緒になって力を合わせて信仰をまもっています。

パウロはエフェソの教会への手紙の中で、わたしたち一人ひとりに、主に結ばれて「光の子として歩みなさい」と呼びかけます。その「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と記されています。

わたしたちは、暗闇の中で疑心暗鬼に苛まれている社会にあって、キリストの光を輝かせ、「善意と正義と真実」を生じさせるように努めたいと思います。

パウロは同じ手紙の中で、わたしたちが光の子として先に光を輝かせるのではなく、まず「キリストはあなたを照らされる」と記しています。しかし、そのためには条件があるとも記されています。それはその言葉の直前にある、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ」と言う言葉に示されています。

わたしたちはキリストからの光の照らしを受けたから立ち上がることができるのではなくて、わたしたちが、立ち上がるからこそ、そこに結果としてキリストの光が照らされるのだ、というのです。すなわち、わたしたちが光の子として輝くためには、キリストからの光の照らしが必要であって、その照らしを受けるためには、わたしたちの主体的な行動がまずなければならないのです。

ヨハネの福音では、シロアムの池で癒やされた盲人の話が記されています。もちろん冒頭で、イエスは土をこねて盲人の目に塗るのですが、そこで本人の行動を促します。

「シロアムの池に行って洗いなさい」

盲人は自ら行動することによって、癒やしをえるというキリストの光に照らされることになるのです。そして、さらには、福音には、「帰ってきた」と記されています。すなわち、キリストに導かれながら自ら行動したことによって光に照らされた盲人は、その光の源であるキリストから離れることはなかった、キリストの光の内にとどまったということです。

その一連の行動を、律法の規程に背いているとして咎め立てるファリサイ派の人たちは、キリスト光の内にとどまることのない人の姿を現しています。

自らの常識やプライドにがんじがらめにされているため、目の前で起こっている事実を、自分の世界の枠組みの中でしか理解することがありません。その目には、キリストの光は届いていないのです。

福音の中では、ファリサイ派の人たちとイエスとの立ち位置の違いが象徴的に描かれています。イエスは外に立っている者として描かれ、ファリサイ派の人たちは自分たちの場所の中にとどまっているように描かれています。目の不自由な人は、翻弄されながら、その間を行き来しています。

キリストの光は、自分たちの殻に閉じこもり、常識とプライドの中に安住を求めている中の人たちには届いていません。そこには、善意と正義と真実が欠けてしまっているのです。

とはいえ、ファリサイ派の人たちが、取り立てて悪人であると断罪することは、わたしたちにはできません。なぜならそこに描かれている姿は、わたしたちそのものでもあるからです。わたしたちは、個人としても共同体としても、自分の思いや社会の常識や長年の伝統やプライドを優先させて、時としてそれを守ることに力を傾けてはいないでしょうか。

積極的に出向いていく教会の姿を説き続ける教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しています。

「主への回心の時期や方法を司るのは自分だといううぬぼれた思い違いで、この恵みの時を無駄に過ごすことのないようにしましょう」 

その上で教皇は、「イスラエルの民のように荒れ野に導かれましょう。そうすれば、花婿であるかたの声をついに聞き、その声を心のうちで、より深く意欲をもって響かせることができるでしょう。そのかたのことばにすすんで関わればそれだけ、わたしたちに無償で与えられる主のいつくしみをますます味わえるようになります」と述べています。

さらに教皇は四旬節メッセージにこう記します。

「イエスにおいて、神の熱意は、ご自分の独り子にわたしたちのすべての罪を負わせるほどに、また教皇ベネディクト十六世が述べたように、「自らに逆らう神のわざ」となるほどまでに高まります。神はまさに、ご自分の敵さえも愛しておられるのです」

わたしたちの旅路の主役は、光であるキリストです。わたしたちを愛するがあまり、先頭に立って十字架を背負い、わたしたちを導いてくださるキリストです。自分という殻を打ち破って外へと出向き、行動するように促すキリストです。

わたしたちはこのキリストに、ひとりでつき従うのではなくて、神の民として、共同体としてつき従っています。それは光の子として、わたしたち一人ひとりが、そして共同体全体が、この世界に「あらゆる善意と正義と真実」を生じさせるためであります。神が求められる世界を実現し、神の声に身をゆだね、神の愛を分かち合うために行動する共同体となるためであります。

困難な状況の中にあって、互いに祈りの内に結ばれて、キリストを証ししていく者となることができるように、招かれる主に従って一歩先へと歩み続けたいと思います。

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3月29日東京カテドラルでのミサのお説教
菊地大司教様のお説教の音声ファイル
大司教お説教29日.m4a
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